小さな境界線

 この写真は映っている方々の許可を得て撮影しているのですか?と問われたことがある。街で写真を撮るとき私はいちいち許可などとるはずもない。街へ出て街の何かを撮りたいと思うのは、街には私が想像する何かを凌駕した不思議な現象が多くあるからである。想像を超えたおじさんが存在し、滅多に見ることのできない何かが道端に転がっているのだ。それは許可を撮って撮影するものではなくむしろそのリアルな姿を盗み撮るものである。そういう意味で写真とはあらゆる意味で盗撮なのである。「許可を得て撮影しているのですか?」と聞いてきたその女性は、その後、X上で私をフォローから外して鍵でブロックしていた。許可なき盗撮は許されるものではないという主張なのだろうと思う。盗撮という考え方の反対には許可を得た撮影というものがあるか、またあるいは、撮影したものを公開してよいかどうかという許可の取り方があるのだろう。自分の撮影した写真を公開してよいかどうかの許可を被写体の方々に確認したことはこれまで一度もない。街を撮影すれば幾人となく画面の中に収まってしまうからである。最も手前のスーツを着た中年サラリーマン(いや、中年でもサラリーマンでもないかもしれないが)に許可などとっていない。拡大すればはっきりと誰かがわかるだろう。彼の知り合いであれば彼が彼であると確実にわかる筈だ。仮に彼をもっと小さく被写体に収めた場合は、どのような認識になるのだろう。被写体が小さく誰かわからない状態になればそれは盗撮ではなくなるのだろうか。そもそも個人が特定できることが問題なのだろうか。もしそれが問題であるとしたら、個人と特定できないほど引いた構図であるならば、許可を取る必要がないという理屈なのだろうか。例えば、親族や身近な人間にはその本人を特定することは可能であるが、ちょっとした知り合いや会社の同僚ぐらいになると見逃してしまう場合、本人の特定はできるという範疇に入るのだろうか。それとも無罪放免となるのだろうか。個人が特定できない人物像と個人が特定できる人物像、または盗撮写真と非盗撮写真の境界線はどこにあるのだろう。
 こういったあらゆる悪意の問題を扱うときに、通常問題になるのが意図の問題である。殺人や傷害は相手を殺める意図、相手を傷つける意図がある場合には罪が重くなる。それは殺人あるいは傷害を起こそうとして起こしているという場合と、そのつもりは全く無かったが結果として殺してしまった、あるいは傷つけてしまったということにおいては刑が軽くなるのである。法学的にこの理屈がどのように説明されているのかは私は詳しくはわからない。しかし専門的には、殺人罪(意図的)過失致死罪(偶然・注意義務違反)であり全く違う行いとなり、意図的な行為は責任主義の元罰することが法的に正しいとされている。私が写真を撮るときは意図的である。つまり人物を被写体として撮影しているわけである。何かを撮影しているときに偶然フレームの中に入ってしまったものではないし、逆にそれ以上の意図もない。これは紛れもなく人物を撮影しているのである。

  • 個人が特定できるということ。