Open Sourceという考え方
この世の中には企業秘密というものがある。特に科学的な分野、工業製品においては、その技術的な製法や過程に関するあらゆる情報を絶対的な秘密にすることによって企業格差を狙う。当然のことながら、優れた製品においてはその戦略は非常に有効に働くように感じられるし実際に有効だった。昭和の企業は基本的にはそのような思想の元で企業経営していたし、中世から江戸時代の武術や兵法もほぼ同様の思想である。あるいは、近所の焼き鳥やのタレでされそうなのであり、それはいわゆる秘伝のタレであり、ご主人以外は(奥さんでさえ)その作り方を知らないといった体である。このような考え方は実践的でもあったし、またある種の美学でもあった。
秘密はある意味で技術的な優勢を色濃く保持しておくというような意味に留まらない。というのも秘密は人間のマインドを少なからず物理的且つ実践的な秘密と同じように強固にし、団結力や仲間意識を高めたりするのである。技術的な優劣は、人間のマインドとしての自尊心やプライドといったものの優劣にも強く関係している。彼等はその秘密をもってアイデンティファイされているのである。これが近代的な(あるいは古典的な)思想の基本であり、非常に常識的だと思われる。中国に日本の科学技術を流出したとされる技術者や経営者はよく批判の的になるのは、このような思想の元に当然の帰結としての批判となっているのだろう。つまり秘密を流出することによって秘密二関連する、経済的・政治的強度を弱くしてしまうという心持ちなのだろう。
一方でOpen soureという考え方がある。この思想は1990年代から始まったインターネットというオープンシステムから始まった。WEBエンジニアの世界では技術的なスタックをすべて開放するという運動が世界的に広がったのである。実際問題として今現在、秘密裏に開発されている技術など殆どない。すべてのプログラムコードを我々は閲覧することができる。これは秘密主義とは全く逆の発想だ。公開し公表し広く知ってもらうことでより強度を上げるというわけだ。Open soureの考え方はその後もより発展し、Githubなどではその発展の歴史がいつ、どこで、だれが、どのように、何を修正・更新したのかが履歴によって追うことができるようになっている。そこにはOpen soureの参加者のリストがありそれらの協力はほぼ皆無償で行われているという事実である。システムのオープンソースという考え方は「車輪の再発見」をしないというコンセプトがある。数千年前に人類が発見した車輪という発明を21世紀の現在に再発見するのはナンセンスであり、むしろそれは発見でないという以上に無駄な作業である。かつての人々が発見した車輪を21世紀に時間をかけて再発見する必要はないのであり、また一方でそれを利用することは盗作ではない。かつての発見を再利用することはズルいことでも卑怯なことでもない、そういった思想がある。秘密主義のコンセプトとは大きく違うわけである。
しかしながら、これはかつての日本でもオープンソースの発想は水面下で発展していた。東芝と日立のエンジニアの話が有名である。どういうわけか東芝と日立は同じ時期に同じような技術を使った商品を発売しているという事実がある。
1986年頃、HDDメーカー(HDDサプライヤー)は80社ほど存在していた。数々の試みの結果、HDDの発展を促し最小化とその読み込み・書き込み速度の向上が著しい。しかしよくよく考えてみるとこれらの発展がどのようなものだったのかと言えば、すべてのメーカーの経営陣はいわゆる企業秘密による独自の技術を駆使した製品だと信じ込んでいるのである。
Stefan Wehrmeyer氏というドイツのソフトウェアエンジニアが、ドイツ連邦の法律をMarkdown形式でGitHub上に公開する取り組みを行っています。これは「Bundes-Git」(連邦Git)と呼ばれています。
https://github.com/bundestag/gesetze