ちなみにもしこの文章を学生さんが読んでいるとしたら、重要なことではありますが、こんな理解の仕方をしていては、テストで点数が取れません。しかるべき教科書や参考書を丸暗記するのが得策です。ここで語られることは愚の骨頂であり、良い子でありたいと願うなら、このようなテキストを読む必要は全くありません。
歴史はまず個々の事象を学ぶより歴史の学び方を十分に理解すべきだと思うわけです。特に日本語の「歴史」という言葉は独立した記号になっていて意味の把握が非常にしづらいのです。歴史というものは、ミクロ視点では単に経緯そのものであり、その時間の経過に起きた出来事の羅列です。しかし、マクロな視点でいうと、それはもう現在には復元することも再現することもできない幻想の「物語」であり壮大な小説なのです。特に若い人々はそれを理解するべきです。歴史の教科書に載っている事柄の裏には実に壮大な物語が横たわっていることになります。historyはstoryと同じギリシャ語語源で、そのまま物語です。英語圏の彼等は歴史を学んでいるのではなく、過去の物語を学びます。ドイツ語に至っては、 Geschichteという言葉がすでに、歴史と物語という両方の意味があります。そういうわけで「歴史」は語り継がれた人間の生身の物語であり、もう少し妄想的で幻想的な現在生きている人間にとっての夢に近いものだと理解することをお勧めするわけです。
ポジショントーク
歴史は必ず政治的な視点から語られることに注意しましょう。もっと言うと、絶対的に誰かに有利なポジショントークであることに留意すべきなのです。これはもう仕方のないことです。平和的にリベラルに誰にとっても理解できる中立的な歴史は存在しません。その時代、その人間によりポジショントークが歴史そのものであることを理解します。
しかしながら最終的にどのように歴史を理解すべきかという問題になります。これは、実に興味深い問題ですが、これがいわゆる歴史認識というものです。歴史認識などという意味不明な言葉を使う必要は全くないので、ここではどういった歴史認識を持つかではなく、どういったポジショントークをするかといったぐらいに理解しましょう。つまるところ、正しい理解はなく、自身の信念に基づいたポジショントークのみが歴史認識であると理解しましょう。新聞やWEBニュース、テレビ、ラジオはおよそその政治的な思想を背景にしたポジショントークです。
蘇我入鹿と蘇我蝦夷が討たれて、天皇を中心とした正しい政治が行われるようになったという大化の改新は、向こう側からの視点から見ると、同時絶大な権力をもった豪族蘇我氏が中大兄皇子と中臣鎌足というテロリストに暗殺されたという解釈になるでしょう。吉田松陰は当時の正当な江戸幕府に対するカルト的なテロリスト集団で、いたいけな若者を洗脳し、国家転覆を狙うキチガイにしか見えないというのも別の視点の解釈なのです。(勿論、国家転覆の後には英雄になりますね。国家転覆に失敗していたら、気持ちの悪い頭のいかれたキチガイです。)こういった視点がなければ歴史の認識を大きく歪ませることになります。
また歴史の本質として、殆どが翻訳であるという事実です。それは日本語でさえ過去の古語の翻訳であったり地方の方言の翻訳であるわけです。また翻訳と同時に何者かにサマライズされ、簡略化し抽象化され記号化されます。実にそれが事実であるわけがないというのが歴史の最も面白いところであり醍醐味です。ヘーゲルが哲学とは歴史そのものであると言ったのも過言ではありません。
強調と削除、そして捏造
歴史は、とても偉い学者さんが複数人で文部科学省の役人や政治家などと一緒に編選します。そして、その政治的な側面での歴史には強調したい部分と隠したい部分が必ず存在します。ひどい場合には、従軍慰安婦や南京大虐殺のように簡単に捏造されます。(AIに訊いてみると、現在は捏造ではなく議論中であると叱られました!)コンスタンティヌスの寄進状(8〜9世紀)ローマ皇帝が教皇に西方領土を譲ったとする文書。これは、15世紀に偽造と証明されています。シオン賢者の議定書(1903年)ユダヤ人の世界征服計画を記したとする文書は、ロシア秘密警察の完全な捏造と判明。ヒトラー日記(1983年)独誌シュテルンが掲載したものは、書道家による大規模偽造!ピルトダウン人(1912年)「人類の祖先」として40年信じられた化石は人骨と類人猿の顎骨を組み合わせた偽物でした。歴史は笑ってしまうほど怪しげな物語の集積であるという理解が最も現実的だと思います。
分節化
原因と結果の記述がそもそもおかしいのが歴史です。そもそも我々人間の世界の認識は、原因があり結果があるという解釈は、ある部分を切り抜いて分節化した結果のミクロな視点であるということです。本来歴史は、ある原因がある結果を生み出す(ナチス・ドイツの台頭がホロコーストを生み出す)のだったら、その結果はまた次の何かの原因になっています。すなわち結果が原因と全く同じ事物なのです。逆にいうとある出来事は原因であり結果であるという重ね合わせの状態であり、ある文節で切り取るとそれが結果に見えたり、原因に見えたりするのです。その原因と結果は実に複雑に絡み合っています。この分節化によって歴史の解釈が大きく変わることから、この分節化こそに政治的な意図、ポジショントークの核心があると言っても過言ではありません。
日本の歴史の中で、飛鳥時代・平安時代…,、明治維新・太平洋戦争・高度経済成長など歴史家達が恣意的な区分で歴史を教えています。実際問題、そうしないと整理が付かないという現実的な問題もありますが、区分(分節化)は、明らかに何等かの意図があります。子供の言い訳とたいして違いがありません。明治維新のはじまりは、いきなりペリーの来航ではじまります。しかしながら、このペリー来航をある物語の頂点におくとどうなるでしょうか?ペリー来航を恋愛映画のキスシーンにすると、日本の歴史はどのように見えるでしょうか?例えば、大塩平八郎の乱で分節化する。すると国内の混乱において「海外を見る」という目線がすでにこの頃から幕府の役人や民衆の知識人の中に芽生え始めているというのがある。世界は凄まじい勢いで動いており、日本だけがぼんやりしているという思想的な動きがあったに違いない。幕府の役人が幕府に対して反旗を翻すという大塩平八郎の乱が分節の始まりとしての解釈ができる。物語の終焉は明治維新です。反幕府という分節でくくることができて、本来地続きの同じ歴史の解釈が変わって見えてしまうのです。
ブランクとサバイバルバイアス
残っている史料は「残れた側」の史料です。焼かれた、負けた、声を持てなかった人々の記録はそもそも存在しません。歴史は「記録を残せた人間」の歴史であり、沈黙している圧倒的多数を常に意識する必要があります。つまり歴史とは声の大きい者、権力者の記録に過ぎないということです。現実的な情報の総量から割り出した歴史上の事実はほんの少しばかりどころか無に等しい。そういったものであると予め理解しておくべきなのです。我々の預かり知らぬ過去が無数にあり、それらの記述は皆無でありなかったことにされているという事実が歴史の本質です。広島、長崎に原子爆弾が落ちたとき、東北の山奥でうさぎを狩って丸焼きにして、お酒を飲みながら空を眺めていた平和な人々については語られません。彼等は玉音放送さえ聞かなかったかもしれません。
歴史は変化した部分を語りがちですが、長期にわたって変わらなかったこと(アナール学派のいう「長期持続 longue durée」)の方が人間の本質に近い場合があります。変化だけを追うと歴史が断絶の連続に見えてしまいます。
Google検索で調べて「ほらね、それは歴史的な記述じゃないわ!これが正しいのよ!」と嘯く方々は、申し訳けないが、かなり重度の愚者です。そういう方々と議論はしない方がよいでしょう。そういう意味では歴史とは、事実を捻じ曲げた捏造同士(妄想同士)の戦いの主戦場なのです。石原慎太郎氏が歴史に対して言及するのはそういった文学的なまっとうな態度といえるでしょう。
概して人間の所業は変態的で過剰なものです。そういったものをあぶり出す歴史なのか、あるいはそういったものを隠蔽する歴史なのかはわかりませんが、歴史は事実を学ぶ態度よりも解釈をする意思の方が圧倒的に大切な対象なのです。大いに勘違いしてゆきましょう。
フランス革命は怪しい!
個人的にフランス革命は怪しいと思っています。民衆がフランス革命を成し遂げたなんていうのは、世界の歴史を見ていてなかなか類稀なことであって、あんなことが本当に起きたのかどうかは、私の個人の感覚でいうと疑わしいなぁと思っています。通常の革命は権力対権力の争いや策略であり、民衆が一致団結して王室を排除できるほどの組織力や政治力はないと考えるわけです。それでも民衆が自由を求めてマリー・アントワネットの首をはねたのだとしたらあっぱれですね。
